『地球の抱き方』〜もっと仲良くなるために〜

昆虫食や地球の魅力を綴ります。五感で地球を感じたい。

閲覧注意《映像有り・犠牲祭》牛の血はどこまでも鮮やかな赤でした。

インドネシアに行ってきたのですが、そこで見た光景が衝撃的で、ブログに残したいと強く感じたので、超久々(2年以上ぶり)に更新します。

 

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僕は、イスラム教最大の祝祭「イード」に立ち会いました。

 

イードとは、イスラム教で定められた宗教的な祝日で、メッカ巡礼の最終日にあたるこの日、イスラム教徒たちは、アブラハムが息子の命を神のために犠牲にしようとしたことをたたえ、アッラー牛やヤギなどの生き物を捧げますそして、それにより、神へのお近づきの印・命への感謝の気持ちを表現するという一大行事です。

 

日本語で言うところの犠牲祭

 

当日の朝、モスクには沢山のイスラム教徒たちが集います。まずは、礼拝。

 

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礼拝が終わると、いよいよ「その時」が近づいてきます。

 

まるまる太った3頭の牛と7頭のヤギたち。

 

彼らは柱に繋がれていて、まるで死を悟るかのような穏やかな表情でゆったりとしています。寝ている子もいました。可愛い。

 

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周りには、礼拝を終えた方々が続々と。次第に、さばく者たちも集ってきます(資格がある人のみが動物をさばけるみたいです)

 

準備が整うと、牛たちは一頭ずつ連れていかれます。

 

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 そして、ロープで手足をぐるぐるにされます。

 

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負けじと、牛も猛反撃。。。

 

その反撃のすさまじさたるや。特に牛は凄かった。正直怖かった。人殺されても全然おかしくないレベル。ただ、それでも、最後は集団の力に負けて、切れ味鋭い大きなナイフで首をガーッと切られる運命なのです。

 

いよいよ。

 

以下、閲覧注意になります

血が苦手な方など、お気をつけ下さい。

 

 

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アッラーアッラーアッラー

 

牛を切る者も、周りを囲むイスラム教徒たちも、そう唱え続けます。

 

しかし、これだけのサイズの牛、そう簡単に首は切れません。

 

切り終えるまでの十数秒間。牛の断末魔の叫びに合わせて、これでもかというくらい真っ赤な色をした牛の血が勢い良く周囲に飛び散りました。

 

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この瞬間、あぁ、美しい、と思いました。

可哀想とか、痛々しいとか、ショッキングだ、とか、そういう気持ちをずっと通り越して、ただただ美しかった。神秘すら感じました。

 

いまだだかつてみたことのない真っ赤な血。これ以上鮮やかな赤はないんじゃないかってくらいに。大げさでもなんでもなく。

 

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そして、首が切られても尚、牛は暫くの間、血を放出し続けました。当然、それを観察していた僕の体も赤で染まります。

 

生暖かい血を浴びた時、そこに命を感じました。

 

 

映像もあります。興味ある方はあわせてぜひ。

 

 

youtu.be

 

牛から流れ出る血の元には、人々が集まっていました。

 

彼らは、血を手で感じ、すくいあげ、中には血で顔を清める者も。

 

神聖なんでしょう。血を楽しむ者、それを真似する者、写真を撮る者、ただ眺める者、目を背ける者。人はみな思い思い、その瞬間に立ち会っていました。

 

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それにしても、美しいこと。

 

とまぁ、そんな余韻に浸る間もなく、屠殺し終えた牛たちは、みるみるうちに食べ物に変わっていきます

 

まずは、ナイフを使って皮をはがします。

(写真はヤギです)

 

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そして、内臓をとりだすと共に、肉も扱いやすいサイズに切り分けていきます。

 

その手際のよさも光っていました。肉の部分はもちろん、内臓も綺麗に洗っていて、命を丸々とフル活用しようとする姿勢が心に残ります。

 

食べ物への感謝の気持ちも自然と生まれてきます。

 

僕らが普段食べている食べ物も全て、誰かしらの手によって、屠殺され、解体されるお陰で、僕らは命の恩恵に預かり、食べ物を美味しくいただけている、という事実を、改めて、感じさせられました。

 

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解体された肉は、3分の1を自分たちで食べ、3分の1はプレゼントし、残りの3分の1は貧者に配るそう。この牛は、誰の者でもなく、他でもない皆のものなのです。

 

当然、人々も興味を持って、解体の過程を見守っていました。

 

子供達の姿が多かったのも印象的でした。きっと彼らは、彼らなりに、目の前の光景と向き合い、命や食というものを感性豊かに捉えて、各々考えていくのだろうな、と勝手ながら考えたりもしました。

 

だってこれは、まぎれもないリアルなのだから。

 

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解体が一息つくと、ぽつぽつと人は帰り始めます。そして、家で待つ者のもとへ、「肉」を届けにいきます。

 

動物を持つ者も持たない人も、裕福な者も貧しい者も、みんな平等。この犠牲祭という日には、誰もが、アッラーに捧げられた動物の肉を等しく食べます。

 

100人いれば、100人が違う人生を歩んでいて、誰一人として同じ生き方はないけれども、神の前では皆平等だし、本来、人間の尊さや命に一切の差はないんだ。皆平等なんだ。

 

そんなことを考えながら、人々で賑わうモスクを後にしました。

 

 

日頃行っている昆虫食と、狩猟時における解体と、食肉加工センターでの屠畜と、今回の犠牲祭どれも、食べるために生き物を殺すという同じ行為ですが、少しづつ違った感覚を覚えたりします。(もちろん、同じ部分も多いですが)それぞれの違いを大切にしつつ、もっと掘り下げてみたいです。

 

ご馳走様でした。

 

 

P.S. 余談ですが、牛一頭は25000円ほどで買えるみたいです。僕の友人が「君、この牛を買わないかい?安くするよ」と営業されました。安すぎでしょ

 

(終)